昭和五十六年十一月二十二日 朝の御理解
重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。
信心は重い物を歩かねばならんと言うようなものではない。家業を勤め、勤めするがよいと、まあ教えておられます。今日はしじ、四十節と言う亊は、しじ、しじゅうと言う亊。しじゅう、いつもと言う意味なんだ、ね。だからいつも信心が出ける。いつも心に神様を感じ、又は修行を感じる生き方をさせて頂くと言う亊は決して、茨の道でもなからなければ、え-、難儀な亊ではない。ね、そいこそ徳川家康じゃないですけれどもね、重い物を担いで山坂を昇るようなものが人生だと。確かに寸心がなかったら、そのように思いますですね。ところが、信心の世界と言うのは、一年、一年有り難うなっていく世界なんです。しかも一年、一年有り難うなっていったら、それに人間の幸福、いうならば条件が一つ、一つ足ろうてくると言うのがお道の信心なんです。ね、ですから楽しいです。有り難いですね。いうならば、リズムに乗っての生涯でありたい。為にはね、しじゅうです。いつも自分の心を焦点に置いてのしじゅうでなからねばならないかと言う亊はね。この世はあの世の為にあるんだという私は確信だと思うですね。これは合楽の場合、そのわけをいろいろな角度から解かれます。
昨日も研修の後に、いわゆる高橋正雄先生のお言葉によっておかげを頂いた。う-ん、道は必ずありと言う亊でしたね。これはもう、二十数年も前の亊であったでしょうかね。私、御本部月参りをしておる時に学院の見学をさして頂いた亊があります。学院の講堂のここで言うならば、ここん所にですね。額がかかってます。求道と、いわゆる道を求めると。いわゆる昨日の高橋正雄先生の筆になるものなんです。ね、私はそこに、この神様がおまつりしてございますから、御参拝さしてもらって、その求道と言う額を見せて頂いておるときに頂いたのが、求道と言う亊、道を求めると言う亊。大変素晴らしい亊なんですけれどもね、いうならば、手探りの求道ではいけんと。道を求める。道を求めると言うて一生、いうなら様々な修行をしてからでも本当のものを求めようとする。いうなら行者風の人生があるかと思うと、高橋正雄先生のようにいうならば、頭脳のひとですからね。教学、もう教学者として大変有名な方ですから、教学の上に道を求められる。と言う亊。求めに求め続けていかれる。そして、もう全てにこの道にあり、という亊を言われるだけに、様々な、商売人には商売道があり、夫婦には夫婦道と言う道がある。と言うふうに、晩年の頃になって書かれました夫婦道と言う大変有名になった本がございました。それを私は最後んとこだけ、少し読ませて頂いたんです。教学の亊は私はわかりませんもんですから、まあ、見せて頂いたら、え-いわゆる夫婦道のと言う亊の中に絵-、人間の持つ欲の中に性欲がある。性欲の亊についてはもう、七十何歳であられましたでしょう。その時。この亊についてはまだ、自分は確たる答えが出ていないと言う意味の亊が書いてございます。今でもまだ、この本は非常に若い方達に売れ続けている御本です。そん時に私は、神様から頂いたのが、その性欲と言うのに「御」の字をつけていただいたんですよ。御性欲と言う亊をね。いうならここで、あの全ての亊に御の字をつけるというような、ふな、その時代から、もう、言うておる亊です。御亊柄として頂く。御性欲として頂く時にそれは汚らしい、とか、何とかと、その、何か不純なような思い方、考え方じゃなくて、もう本当に神様に頂いてるものとしての頂き方。そしたらこの、夫婦道の解決がつくんだと言うな御理解をその時、頂いた亊がざいます。いわゆる、その求道と、私共新人させていただく者が、まあ、求道させて、求道から、求道しておるけども、只、手探り的な求道では一生かかっても出る所に出られない。兎に角性欲のことに限っては、まあだ、自分が七十いくつになるけれども解決がついていないと言うような結果なんです。ね、そして頂きました亊がね、“道を求める前に光りを頂け”と頂いたんです。道を求める前に光を頂け。いうならば、徳の光を、徳を受ける為の信心をせよ、と。・徳を受ける亊の道はもう、足元にあるんだ、自分のね、光をもって道をだから、私は合楽の場合の、わたしが求道してまいりましたのは、え-、その時代、今から考えてみますと、様々な時代がございました。ま-、本当に何とたあいもないと言う亊であったり、または幼稚であったり、けれどもね、それが、いわゆる一年、一年本当の亊になっていっておる、と言う亊なんです。だから、ふなら子供ん時に大学の勉強が出けないようにね、神様は私の生涯かけて、これからもまた、変わって行く亊だろう。進んで行くだろう。光をもってこの道を間違いなく。小学校から中学校から、高校と言うふうに私の場合、合楽の場合は進んで来てるんです。ね、それは光があったからです。ね、求道と言うてもだから、大変、まあ、宗教ものとしては、尊い言葉ですけれども。只、ガムシャラに、求道、求道とあらゆる修行をしても、ふなら本当の亊に出られない証拠に、人間の言うならば、まあ、いうならば何と申しますか、私は最近、私自身の亊を思うんですけれども。私の思う亊、私が欲しいと思う亊、私が考えておる亊、私が行うておる亊の全てに天地の裏付けのあるのにもう、只、只驚くばかりです。うん、成程、信心 さしてもらって段々本当な亊が分かって行くとこういう世界が、それこそ、ふならこれを数十年前こういうような世界があると言うような亊は、神様を信じておりましたよ。けれども、ふなら、こういう世界がある。こういうおかげが受けられるとは思うていなかった。ね、だから振り返ってみると、様々な所を通らせて頂いとります。けれどもその様々な亊の全てが、今日の合楽を築いてるんです。はあ、あんな亊がなからにゃよかったと言う亊はない。そいう亊のおかげで今日の合楽が、一段、一段、本当へ進んで行っておると言う亊。ね・・・・・、昨日吉井の杉さんが親子で御礼お届けに見えました。ここん婦人総代であります、杉さんですね。御主人がもと、合楽・・・椛目時代の総代をしておられて、若くて亡くなられましたから、現在未亡人であんなさいます。その杉さんが今度の新総代、え-、婦人総代のおかげを頂いてまあ、御子さん達が何人もありますけども、あ-、外へ出て勤めておられますので、え-、広い、広いお家でお婆ちゃんと二人暮らしなんです。そのお婆ちゃんが今日で、八十八のお祝いを原鶴の小野、小野何ち言うか。小野屋で今日ある亊になります。もう、それこそ大変な。大きゅうなお祝いをなさいます。前、前からずっとお願いがしてございましたが、その今日のお祝いが出けると言う亊について、本当におかげを頂いて来た亊の、まあ、お礼。八十八のお礼のお届けが昨日ございました。それで私が御神米を下げてそれに、え-、千世と書いてやりました。ね、これはこの世の亊を現世と言うね。夫婦は一世ですかね。親子は一世、夫婦は二世、主従三世と言うふうにこう申しましょう。その意味での千世です。千の世です。もう、一月も前だったでしょうか。熊谷さんがあ-、お届けなさいます亊に今日は、杉のお婆ちゃんが見えました。もう、熊谷さん、私はこの頃、寂しうて、寂しうてと言われるのです。もう、お金はどれだけあるかわからん。それこそ城のような、お家に住んでおられる。。実に優雅な、あ-生活しておられる。もう、それこそお年寄りですけれど、まだ、習字をなさったり、お茶、お花、もう様々な稽古亊を身に付けておられるお婆ちゃんですから、その淋しいかろうはずはない。孫たちは立派に出いっていきよるし、え-、のにも、かかわらず寂しゅうて、寂しゅうてとこう、言われる。もう、聞かれてその亊を合楽の親先生にお願いしてげましょうというて、お願いをされた時に、私がここで頂いたのが、ありゃ何とかやったかね。 松、松本か、千世という方のお届けがあったあとやったんですよ。もう、松本というのは合楽の信心という亊でしょう。あ、合楽の信心によって、千世と私は昨日、そん杉さんが先生、千世とはどう亊でしょうかというて言われるから、あの-、思ったのが、今の夫婦は、あ-、ね、親子は一世。夫婦 は二世、ね。主従は三世。あ-、三世。三世のもつと、もっと素晴らしい、千世。千世(ちせ)というふうに、いっておったけど。これは千世(せんぜ)と読むべきだと思うてこれは千世(せんぜ)の亊ですよ。と、千世という亊はあの世の、限りないあの世の亊ですよ、と言うて、まあ説明をしてさしあげた亊出でございましたけれども、ね。どうでしょう。今日の一番はじめ、この世はあの世の為にあると、始終、いつも思い続ける所から、様々な教が生き生きとしてね、それこそ家業を勤め勤め、出けれる合楽。ここで言うなら、合楽理念に基づいた生き方が出けれるようになるです。 皆さん、私はこれはね、どうしても確信して頂くところまで、信心を進めて頂きたい亊は、今、申します、この世はもうあの世の為にあるんです、まちがいなく。それをおかげとか、色々、御利益とこういうせんと、なかなか信心と氏子が申しませんから、おかげを下さるから、おかげを頂く為の神様てん、仏様のように思うておるけども、そこから本当の道がわかり、本当、求道する心が起こって、ね、いわゆるいうなら極楽行きの為のこの世であると言う亊やらが、わかってくるわけ。それをふな、合楽では合楽理念による、いうならば、この世でおかげを頂いて、この世での、その心の助かりが、そのままあの世にも持っていけれる。しかもあの世に行っても限りない精進が出来る手立てが、ふなら、あの世に行っても、魂の世界に行っても合楽理念を持って精進して行けれるという亊なんです。だから、もう、この世、あの世を問わずにいつも、しじゅう自分の心の中にです。ね、信心の教えというて様々な教えが沢山ありますけれども、その、まあ、いよいよ本当なものに育てていこうとする。そういう、いうならば精進こそがいよいよ求道であり、また、求める道が与えられるのであり、道は必ずあり。その必ずある道を、ね。わからして頂きながら進んでいくのですから、間違いのない、いうならば合楽世界。ね、極楽のもういっちょ向こうの世界にも到達が出来ようという。ひとつの願い。願いと同時に確信をもって進んでいけれるような信心を頂きたい。 それには、しじゅう自分の心の中にね、この世はあの世の為にあるんだ、と。そのあの世の為の精進をなされていく限り、寂しい井亊もなかなければ、ね、ね、あ-苦しい亊でもない。もう楽しい、有り難い。いや、しかもその有り難いは、一年、一年有り難うなっていくというような道づけというか、道が開けてきておかげの頂けれる信心なんです。ね。為にはいよいよ合楽理念の実験実証をもってです。確かに、この世はあのよの為にあるんだという確信をもっての生き方。しじゅうその亊を心の中に頂いての全てである。という亊。生活、教えを行ずるというてもその亊が根本である。だから、そうせずにはおられない、という金光様の御信心は、そうせずにはおられない。そこからやむにやまれないものが、生まれて、この朝参りなら、朝参りという亊も出けれるようなおかげにつながって来るのじゃないでしょうか、ね。 「どうぞ。」